今日は桜桃忌ということで、彼についてごく軽く書いてみたい。
考えれば考えるほど思いはあふれ、それだけでも時間は
ひたすらに過ぎてゆくのに、いざ書くとなればそれこそ
多くの資料が必要となってしまう。
なので、とにかく書けそうなところを書くにとどめる。
そもそもここと関連のない話であるし、読者諸氏にも
興味のない方も多いであろう。
とにかく軽く書くつもり。
「桜桃忌」というのは「忌」であるからして、
太宰治という作家の命日である。
正確に言えば、彼の死体が上がった日。
しかしまた、彼の生まれた日でもある。
彼は6月13日の夜から14日の朝にかけた間に、
玉川上水に女と入水した。
雨で水かさの増した玉川上水ではその体が見つからず、
奇しくも数日後の誕生日である19日に、やや下流の地点で発見された。
自らの体が浮かび上がる時間を計算して、
飛び込んだわけではなかろう。
まして死体が自ら浮かび上がるタイミングを見計らうなどというのは、
もはやオカルトである。
なのに、この計算されたような終わりかたはなんだ。
ズルいよ。ズルすぎる。
カッコつけやがって。
彼がその時に書いていた作品のタイトルは「グッドバイ」。
これは、読めばわかるが、内容は自殺とはあまり関係ない。
当時の背景や彼がおかれた状況も、あまり死の方向へは
向いていなかったという説を私は信じる。
でも、どうなんだ。
最後の未完の作品名が「グッドバイ」。
「グッドバイ」の途中で、先に自分だけ「グッドバイ」するなんて。
作品の内容は関係なくても、タイトルとタイミングが
あまりにもズルいじゃないか。
彼の最期は計算されてたどりついた答えなのか。
計算ではなく、走り抜けて着いたところがいつも完璧なのか。
その絶妙かつあやふやさが彼の魅力のひとつであると、私は思う。
ビジネスでは「出口戦略」などということが言われる。
会社を作るのはいいが、会社の最後をどうするのか、
経営者はそこまで考えておく必要があるとかなんとか。
経営者じゃなくたって「目標やゴールを決めて
そこから逆算して日々の行動を決める」なんてことを
言われたり聞いたりすることも多いだろう。
どうだろうか。
最後からの逆算。
これほどツマラナイものはない。
ツマラナイからみんなやらない。
みんなやらないから、やったやつが勝つ。
でも、世の中には逆算しなくたって、毎日走ってるだけで
勝手にそこにたどり着いちゃうヤツがいるんだ。
ズルいよ。
夏休みの宿題がある。
問題集のページを日数で割ると、1日2ページやれば
最終日に見事終わる計算となる。
黙々と1日2ページやるやつはほとんどいない。
さて、やる側ではなく、その過程を眺める側としてはどうか。
1日2ページ、毎日ひたすら問題集を解く
出来杉くんを見て、おもしろいか。
初日に計算して1日2ページやると決めて、
4ページやったところで遊びに行き、
結局最終日の昼になってもまだ取り掛からない
のび太を見ているほうが、はるかにおもしろい。
それでいて夏休みが終わったあと、
なぜか出来杉くんと同じ結果になるとしたら・・・
敬服せざるをえない。
そんなような魅力を私は太宰に感じる。
「1+1=2」という数式に、取り立てて感動はない。
でも「1=0.999999・・・」という数式が証明される過程、
そしてそれが正しいと知ったときと同じ感動を、
私は彼の作品を読むたびに感じる。
それは、作品を初めて読んだときだけではなく、
作品を読み返したときでも、同じように味わうことができる。
やや時間もせまっているので、
最後に太宰治の作品の最後だけを
いくつか紹介しようと思う。
文章は「出だしの3行で決まる」などといわれ、
冒頭部を抜き出したものは多いだろうが、
最後だけを抜き出すことはあまりないであろう。
一体これらの最後から、何が逆算できるであろうか。
彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。(未完)
『グッド・バイ』 グッド・バイ (新潮文庫)
唐詩選の五言絶句の中に、人生足別離の一句があり、私の或る先輩はこれを「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と訳した。まことに、相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい。
題して「グッド・バイ」現代の紳士淑女の、別離百態と言っては大袈裟だけれども、さまざまの別離の様相を写し得たら、さいわい。『「グッド・バイ」作者の言葉』 もの思う葦 (新潮文庫)
葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの斷崖になつてゐて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。
そして、否、それだけのことである。『道化の華』 晩年 (新潮文庫)
性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。
『瘤取り』 お伽草紙 (新潮文庫)
勇者は、ひどく赤面した。
『走れメロス』 走れメロス (新潮文庫)
僕は立ちどまり、地団駄踏みたい思いで、
「ほかへ行きましょう。あそこでは、飲めない。」
「同感です。」
僕たちは、その日から、ふっと河岸をかえた。『眉山』 グッド・バイ (新潮文庫)
ふたり声をそろへてお礼を言ふ。うちへ帰つて現像してみた時には驚くだらう。富士山だけが大きく写つてゐて、ふたりの姿はどこにも見えない。
その翌る日に、山を下りた。まづ、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出してゐる。酸漿に似てゐた。
『富嶽百景』 走れメロス (新潮文庫)
拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。
『トカトントン』 ヴィヨンの妻 (新潮文庫)
あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。
『駆け込み訴え』 走れメロス (新潮文庫)
この金貨のおかげかどうか、お爺さんは、のち間もなく仕官して、やがて一国の宰相の地位にまで昇つたといふ。世人はこれを、雀大臣と呼んで、この出世も、かれの往年の雀に対する愛情の結実であるといふ工合ひに取沙汰したが、しかし、お爺さんは、そのやうなお世辞を聞く度毎に、幽かに苦笑して、「いや、女房のおかげです。あれには、苦労をかけました。」と言つたさうだ。
『舌切り雀』 お伽草紙 (新潮文庫)
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。『桜桃』 ヴィヨンの妻 (新潮文庫)
最後に挙げた「桜桃」という作品にちなんで、桜桃忌。
「桜桃」は未完の「グッドバイ」より前、
死の直前に書かれた短編で、
完成した最後の作品。
「生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、
少しでも動くと、血が噴き出す。」
これも「桜桃」の中から。
生きるということは、たいへん。
・・・そろそろ時間のようだ。
いや、なに、実は私も数日後が誕生日でね。
これからちょっと玉川上水のあたりへ、散策にでも行こうかと。
おっと、その前に三鷹の駅近くでちょっと一緒に
飲んでくれる女性のかたはいないだろうか。
職業が美容師であれば、なお、ありがたい。
さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。
『津軽』 津軽 (新潮文庫)